潮干祭の起源と変遷
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 神前神社の祭礼で、その昔、祭神である神武天皇が東征の折、海からこの地に上陸したとの伝説にちなみ、御旅所(尾張三社)に渡御する神輿にお供する5輌の山車を潮干の浜へ曳き下ろしたことから「潮干祭」の名がつけられました。  潮の干いた浜に並ぶ5輌の山車は勇壮・華麗で、まるで浜に華が咲いたようです。

潮干祭の起源 (予想図)

 その起源は古く、言い伝えによりますと応仁・文明の頃(15世紀後半)、亀崎の地に移り住んだ18軒の武家の発起により、荷車様の物に笹竹を立て、神紋を染め抜いた幕を張り、囃子を入れて町内を曳き廻したのが起源とされています。 その後町の発展に伴い、宮本車(東組)、青龍車(石橋組)、力神車(中切組)、神楽車(田中組)、花王車(西組)と各々の山車が建造され、何度も総造り変えや修復を経て今日の姿になりました。

 江戸時代には、領主(尾張藩主)成瀬隼人正から十万石大名格式の旗印、陣笠、陣羽織、采配などを許され、行装儀式も厳重に行われ、その風格・伝統は今でもしっかりと受け継がれています。

昭和26年の潮干祭(間瀬伊造氏撮影)

 山車は、諏訪の名人立川和四郎冨昌、立川常蔵昌敬や瀬川治助、竹内久一をはじめとする名工の手による精緻な彫刻や、岸駒・翠光ら有名画伯の下絵による豪華な幕類、螺鈿や堆朱・七宝焼で飾られた四本柱などで装飾されています。 また、各山車の上では囃子にあわせて桜の枝を渡るなどからくり人形が華麗に舞い踊ります。 なかでも、竹田からくりの生きた化石と言われている傀儡師は必見です。 このように潮干祭に曳き出される5輌の山車は、文化文政期以降幕末の爛熟した文化の粋を結集して造られたものであります。

 伊勢湾台風後、防波堤とそれに付随する国道の完成により山車の海浜曳き下ろしは永く途絶えていましたが、平成5年に亀崎町民の熱意により神前神社前に人工海浜が完成し、山車を海浜に曳き下ろす勇壮な祭りが復活しました。  祭りにおける人手不足が全国的に叫ばれるなか、潮干祭は亀崎の祭りびとの情熱によって年々盛んになっており、古来からの伝統である「女人禁制」も崩れることなく現在に至っています。

 長い歴史を持つ潮干祭は、昭和41年に愛知県有形民俗文化財に指定されました。


亀崎潮干祭代参会